池坊保子氏の半生は、幼少期から培われた強い意志と、他者への深い信頼によって紡がれてきた。既存の価値観にとらわれず自身の道を切り拓いた彼女の、信念を貫く生き様と、その活動を支えた人々への感謝の念を深掘りする。
取材・執筆/山口和史 Kazushi Yamaguchi 写真/西田周平 Shuhei Nishida
床の間に飾られるなんてイヤ 「生意気な少女」が夢見た未来
― 池坊氏の半生を紐解くと、その根底には幼い頃から内包していた明確な意志の力が存在する。それは、華族令嬢という言葉から連想される穏やかなイメージとは一線を画す、力強い推進力となっていく。
池坊 保子 氏 (以下 池坊氏): 子どもの頃から、政治家、弁護士、小説家のいずれかになりたかったんです。生意気な少女でしたからね(笑)。
― 彼女は自らの進むべき道を、社会の固定観念に縛られることなく、自身の興味と意志で見定めていた。その揺るぎない信念は、後に彼女が政治の世界へ足を踏み入れた際に、強力なエネルギーとなる。女性の社会進出の黎明期、彼女はまさに「第一世代」の先駆者だった。特に、彼女が身を置く京都の社会では、「女性は、静かに、たおやかに、寛容に、度量深く、床の間に座っているのがいい」(池坊氏談)とする旧来の価値観が根強い世界だった。しかし、彼女はその役割をきっぱりと拒絶する。
池坊氏 : 床の間に飾られるのは嫌なんですよ。
― この姿勢は、後年、足を踏み入れた政界でも向けられたであろう性差の壁に対して、精神的な盾となった。
池坊氏 :父や母から、男性だから女性だからと言われたことなど一度もありませんでした。私もそういうことを気にしないんです。「生きていくのは私」と思っていますから。
― 自らの信念を貫き、歯に衣着せぬ発言を続ける彼女の姿勢は、時に世間の耳目を集め、批判の対象となることもあった。
日本相撲協会評議員会議長を務めていた頃、角界を揺るがす事件が起きた。その際、池坊氏は問題の渦中に自ら飛び込むように、連日ワイドショーに出演し持論を展開している。当然、毀誉褒貶入り混じった「声」が浴びせられることになる。しかし、彼女の精神は、寄せられる批判の嵐によって揺らぐことはない。
池坊氏 :ワイドショーは、出るものであって見るものではないと思っています。私が正しいと感じたことを発信するのがメディア。無責任に発せられる批判によって精神を削られるのは間違っていると思っています。
― 批判を受け付けないということではない。正鵠を射た意見にはもちろん耳を傾ける。しかし、顔の見えない塊としての批判、罵詈雑言は意に介さない。週刊誌やSNSに対しても同様だ。
この精神性は、京都特有の「いけず」な文化に対する反応にも見て取れる。遠回しな皮肉や意地悪も、「されていても、私きっと響かなかったんだと思うんです。気がつかないから(笑)」と、彼女の心の壁を通り抜けることはない。
「不要なものは見ない、聞かない」。この哲学こそが、彼女をしなやかに、そして強くあらしめている。
「嫌な思いは一度もなかった」16年間 政治活動を支えた人々への感謝の念

― 1996年、新進党党首(当時)だった小沢一郎氏の要請を受け、第41回衆議院議員総選挙に立候補。衆議院議員に初当選した。以来、16年にわたって日本の特に教育、文化の面において多大な貢献を果たす。
彼女の政治家としての歩みは、一貫して「信頼」という極めて人間的な尺度によって貫かれている。その原点は新進党時代、小沢氏との出会いと決別に象徴されている。
池坊氏:立候補前に小沢さんとお会いしました。そこで「この人に日本の未来を託そう」と思ったんです。それが政治の世界に足を踏み入れるきっかけでした。
― しかし、その信頼は長くは続かなかった。特定の出来事があったわけではない。ただ、小沢氏が他の人へ向ける態度を目の当たりにするうち、「いずれ私も『そういう思い』をする」と感じたのだという。
池坊氏: 相手に対して不信感を抱きながら一緒に仕事はできませんよね。だから、新進党の総裁選挙の際、ご本人にはっきりとお伝えしたんです。
― 総裁選挙の前日、小沢氏から「明日の投票、君を信じているからね」と電話が入ったという。それに対し、彼女は静かに、しかしきっぱりとこう返した。
池坊氏:申し訳ございません。私は入れられません。
― その後、池坊氏は公明党に入党する。そのきっかけもまた「信頼」だった。彼女は創価学会信者でもなければ、ましてや紫雲山頂法寺住職の妻でもある。入党前、一瞬のためらいがあったという。
池坊氏:創価学会のある方を大変信頼、尊敬していたんですね。その方が「宗教は関係ありません。公明党は政治結社です」とおっしゃるので、「私はその言葉を信じます」と入党を決めたんです。
― 宗派の違う唯一の衆議院議員だった。しかし、「一度もそのことで嫌な思いをしたことはなかった」と語る。
「夏の暑い日も、冬の寒い時も、一度も嫌だと思うことなく政治家として活動を続けていけたのは、公明党の方々のお支えのおかげです」と、いまでも深い感謝の念を抱いている。
その際も、決め手となったのもやはり「信頼」であった。
Profile
池坊 保子 氏
1942年東京都出身。旧華族・梅溪家の三女として生まれる。学習院大学進学後、華道池坊の家元・池坊専永氏と結婚。池坊学園理事長やお茶の水学院学院長などを歴任し、華道の普及と発展に尽力した。
1996年に衆議院議員初当選、以降5期・16年務める。文部科学大臣政務官、衆議院文部科学委員長、文部科学副大臣などを歴任し、特に教育・科学技術・文化芸術分野での政策推進に力を注いだ。政界引退後も、特定非営利活動法人萌木理事長、学校法人いわき明星大学理事、公益財団法人日本相撲協会評議員会議長、横綱審議委員会委員など多方面で活躍して
いる。主な受章に旭日大綬章。著書に『華の血族』などがある。
