DVDの累計売上枚数は30万枚以上。2026年3月には、TVerにおける九州・沖縄エリアの総再生数第1位となる「TVerアワード2025ローカルバラエティ賞九州沖縄」を受賞するなど、地方発の人気コンテンツとして話題を集めるテレビ西日本制作の旅バラエティ『ゴリパラ見聞録』。予算がない、時間もない、人手もない……そんな逆境をどう乗り越え、全国的な人気を集めたのか。番組立ち上げから2026年3月まで、ディレクターを務めた富永治明さんに話を聞いた。
取材・文/富岡蒼介 Sohsuke Tomioka 写真/西田周平 Shuhei Nishida
始まりは、月2回の枠を埋めるための企画だった
ーまず、『ゴリパラ見聞録』がどんな番組か教えてください。
富永:ひとことで言えば、行き当たりばったりの旅バラエティです。視聴者の方から「行ってみてほしい場所」を募り、集まった候補からあみだくじで行き先を決めます。あとはゴリけんさんとパラシュート部隊さんの二人、最小限のスタッフが、その場所を目指して旅をするだけです。依頼者の代わりに現地で写真を撮ってお渡しするのが、番組の約束事になっています。台本などは一切なく、予定どおりにいかない道中そのものを楽しんでいただく番組です。2009年に福岡のテレビ西日本で始めて、おかげさまで15年以上続いています。番組のファンを僕らは「キッズ」と呼んでいて、うれしいことに今では福岡だけでなく全国にいます。
ーそもそも、どんなきっかけで生まれた企画だったのですか。
富永:きっかけは偶然で、喫煙所での雑談からでした。月に4週あるうちの2週分、何か新しい番組をやってくれと言われたのが始まりでした。当時のプロデューサーが、ゴリけんさんとパラシュート部隊さんをどうしても使いたい、売れてほしいと。
当時から3人の絡みは面白かったんです。お金を払いたいぐらいに。だけど、本番になると緊張するタイプでした。なので「素」に近い形の方が、伸び伸びできるのではないかと思いました。僕自身は当時、情報番組をやっていたので芸人さんを面白くする演出なんて思いつかないですし(笑)。ただ、芸人さん全般に言えると思いますが、基本的に「笑わせたい」人たちなので、番組開始直後は、自分たちの素の部分を見せて笑いを取れても「笑われている」と感じていたかもしれません。
でも、3人ともチャーミングで面白いのに、なぜそこを隠す必要があるんだと思っていました。気持ちは分かりますが、人を笑顔にしていることには変わりはないだろうと、お笑いの素人ながら思っていましたし、3人が「面白い人」という認識がつけばいいなと。当時のプロデューサーも半信半疑でしたが、その「素」に近い姿を番組にしてみようということでまとまりました。
もうひとつ、僕自身が学生の頃に、福岡から広島までお好み焼きを食べに行くような旅をして、いちばん楽しかったのは目的地よりも道中だったんです。あの道中の面白さを番組にできないか、という思いも重ねていました。
ーもともと若手芸人向けに考えていた企画だそうですね。
富永:若手芸人の番組用に出してみようと思っていた企画でした。いきなり頼まれた場所へ自力行って、きついことをやって依頼をかなえる。このパッケージなら、誰がやっても番組として成立するだろうと思っていたんです。なので、すでにある程度の芸歴を重ねていた3人には失礼な企画だとは思っていました。「なんの道筋もない丸投げ」と思っていたでしょうね。でも、そんな企画から出てくる彼らの人間性を撮りたい企画だったんです。
3人からも「なんでこんなことしなきゃいけないの?」とか「あなたは何も考えてない」って何度も言われたことあります(笑)。実際にそうですから反論はできないですけど。
ー「素を見せる」ために、意図的に作り込まないようにしたわけですね。
富永:意図的にといった戦略めいた話ではなく、結果的にそうなったんです。番組の構成上、ロケ当日に依頼者から行き先を聞いて場所が決まるので、決まるまで僕も演者も行き先を知らない。お互いフラットなんです。
通常、番組の制作側は事前に撮影の段取りを組んでいて、「◯◯を見せたい」という意図を持って演者や視聴者を誘導します。でも『ゴリパラ見聞録』は、ディレクターである僕自身もどこに行くのか知らないわけですから「何を見せたい」がなく、どうしようもないんです。僕が本当に見せたいのは、3人の面白さ。そもそも、僕の頭の中に意図はないんです。意図があると、色々リサーチして定番の旅行コースを作ってしまって、それに出演者も着いていく、何の面白みがない旅になってしまう可能性が高いんです。だから、目的地が決まってから3人といろいろ話します。今思い返すと、この打ち合わせのおかげで普通の番組とは違う、「出演者の色」がたっぷり出る形になったのかもしれません。
ただ、企画としてはハードル下げたいと考えていました。だから、依頼を受けたらその足ですぐに行く、人に頼まれたから行くというフレームを作りました。このおかげで、何かがうまく行かなくても、今日の今日やってるんだから仕方ないよねという視聴者も納得できる設定になりました。
ハードルで思い出しました。出演者の3人も芸人さんなので、一生懸命に面白いエピソードを道中で話してくれるんです。でも、番組初期は「今から面白い話をしますよ」といった顔を出してしまう癖があったんです。そうなると、「お、どんな面白い話をするんだ?」と、視聴者のハードルが上がってしまいますよね。なので、気づくたびに「今、笑わせにいきましたよね?」と、今考えるとなんとも意地が悪いことを言っていましたね。
予算が半分になって、あの「一献」が生まれた

ー番組は、順調に大きくなっていったのですか。
富永:いえ、かなり紆余曲折しました。最初は2週に1本、ある番組内のコーナーとして放送していました。それが認められて毎週の番組になって評判が出てきたところで、また番組内の1コーナーに戻されたんです。そのとき予算が削られました。それまで1本の旅に出て1週分だったのを、旅1本で2週分作ってくれと。労力は倍なのに、当時はギャラは変わらずで、これは僕の愚痴になりますね(笑)。
ーその制約から、何が生まれたのですか。
富永:番組の名物になった「一献(飲み会)」のパートです。たとえば、視聴者からのお題が関東のある場所になったとします。すると、福岡から関東に行くだけで4〜5時間かかる。着いたら夕方で、現地での撮影は難しい。番組冒頭の視聴者インタビューだけでは4〜5分しか撮れません。残りの放送時間「20分」をどう埋めるか。晩飯のシーンで尺を稼ぐしかない、飲み会を撮影するしかないんですね。
初めて飲み会の場を収録した回のことを憶えています。予算を削られたり、評判が良いのに番組からコーナーに降格した際の不満がいっぱいで、僕も出演者も半分ヤケになっていて、テレビ局に対して不満をぶちまけました。それを「これが僕らの本音だ!」と思って、忖度なしでVTRを作りました。が、出来上がった直後、番組を降格させる決断をしたテレビ局の偉い方と、そのVTRを見ることになったんです。怒られて、その場で作り直しを命じられるなと肝を冷やしました。しかし、「お前らの気持ちも分かるよ」とそのままオンエアしてくれたんです。その回の反響が多くて、以後、番組の名物になっていきました。
振り返ってみると、すべて必要に迫られた結果です。こうやれば売れるなんて考えていませんでした。そもそもカメラマンを雇うお金もなかったので、僕が自分でカメラを回しました。ドライバーも雇えないから演者が運転する。いる人間だけで作るしかなかったんです。
ー「お金がない」ことが、むしろ武器になった。
富永:結果的に、ですね。ただお金がないことを良しとはしたくないんです。その状況は、結局、誰かが無理しているわけですから。それを美談にしたいとは思いません。
予算がないから創意工夫で――とよく言われますが、そんな面白い企画を都合よく思いつく能力もありません。ただ、嘆いていても変わらないので、自分たちで面白がるしかないんです。やったことは面白いと信じて、愚直にやり続けたことぐらいですかね。飽きずに、本気で、気づかれるまで。これは、ゴリけんさんがリーダーとなって、その熱量で全員を引っ張ってくれたからできたんだと思います。
僕らが番組を始めた頃は、日本という国自体、景気がいいわけでもありませんでした。頑張っても、頑張っても結果が出ない、ままならない――僕も含めてそういう人たちがいっぱいいました。そんな人たちが、ジタバタしてあがき続ける3人の姿に共感してくれたんじゃないかと思います。
ー周囲からは、どう見られていたのですか。
富永:他の番組のスタッフから、「ゴリパラがあの予算でできるんだから、お前らもできるだろう」と偉い方に言われて困っていると聞いたことがあります。こちらは無いものは無いので、いろんな人に無理をさせて、しかたなくやっていただけなんですけどね。設備や環境も整っていない、ホームランが打てる一流の選手がいないチームでどうやって戦うんだと思いながら作っていました。
外から見るのと中でやるのとでは違いますし、楽しそうに気軽に作れていると思われているのであれば、僕らの勝ちだなとも思っていました。
ー番組が縮小されたとき、悔しさはなかったのですか。
富永:もちろんありました。良かれと思って積み上げたものが、大局的な事情で縮小されたわけですから。不満もずいぶん言いました。ただ、正しい正しくない、面白い/面白くないといった判断基準外での決定ですから、覆るはずもない。仕方がないんです。その「仕方なく」やった工夫が、結果として番組の背骨になりました。あとから振り返れば、一番苦しい時期に、一番大事なものが生まれていたんです。狙ってできていたらかっこいいのですが、あくまでも成り行きです。
予定調和に飽きた人へ、リアルだけを届ける

ー作り込まない一方で、視聴者には何が刺さっていると感じますか。
富永:僕もはっきりしたことは分かりませんが、等身大であることかなと思います。テレビは「見せる」ことが前提です。その全体をとっぱらいました。
〇〇県に行ったら〇〇に行くものだといった、お約束があるじゃないですか? 旅番組であれば、1軒目はあそこに行って、2軒目にはここに行ってといったものです。『ゴリパラ見聞録』は、「有名な人気観光地」よりも「出演者が行きたいとゴネるマイナーなスポット」を優先するんです。そして行きたいと言い出した本人に、その責任を背負ってもらう。
出演者は3人いますが、どうしてもその場所に行きたい人と、別に行きたいとは思っていない人がいるわけです。友人と行く旅ってそうじゃないですか? どんなに行程がめちゃくちゃでも、それぞれの興味があるところに行く。旅番組のセオリーからはまったく外れてはいるのですが、本来、旅ってこうだよなと。番組としてまとめようと無理をしていないし、本音で勝負しているんです。
身内受けもバンバン使いました。テレビの世界では、身内受けはダメだと言われることが多いのですが、僕はあんまりそう思っていないんです。身内受けは身内にはめちゃくちゃ面白いわけじゃないですか? 「その人を知っている」というのが一番の武器だと僕は思うんです。たとえば「学校の〇〇先生のモノマネ」って、その学校では鉄板なネタになる。視聴者に3人の置かれている環境や、人間性をまずは知ってもらい、共感やアンチの感情の双方を抱かせながら、いつの間にか「身内」になってくれたらいいなと思いながら作っていました。
もちろん身内受けとは感じさせず、背景を知らなくても分かりやすく話してくれる3人のトーク力と、自身のプライベートをさらけ出す覚悟があった上で成立したことですけどね。制作側の思いがちょっとでも伝わったから、引き受けてくれたのかもしれません。
(後編に続く)
Profile
富永治明 氏
福岡発の旅バラエティ『ゴリパラ見聞録』を、2009年の立ち上げから約17年支えた総合演出ディレクター。ロケに同行し、撮影から編集までをほぼ一人で担う姿は「第四の男」と呼ばれた。低予算の行き当たりばったりを逆手に取り、出演者の素顔をそのまま映す作風を確立。DVDは累計30万枚を超え、TVerアワードも受賞し、福岡のローカル番組を全国区へ押し上げた。2026年3月、ディレクターを勇退。
