2026年2月、私が拠点を置くシリコンバレーを発端に「SaaSの死(SaaS is Dead)」という不穏な言葉が急速に広まり、世界のテクノロジー市場を震撼させています。米セールスフォースをはじめとする主要SaaS(Software as a Service)企業の株価が急落し、市場は大きな動揺を見せました。この現象の直接的なきっかけとなったのは、AIスタートアップであるAnthropic社による新サービスの発表でした。彼らが提示した「AIが人間のPC操作を代行する」という未来像は、これまでの「人間がソフトウェアを操作する」というSaaSの前提を根底から覆す可能性を投資家に突きつけたのです。
しかし、この株価急落は突発的な事故ではなく、以前から進行していたある「決定的な格差」が表面化した結果に過ぎません。本稿では、「SaaSの死」の本質的な意味、その背景にある経済的な力学、そしてSaaS企業や日本企業が生き残りをかけて取るべき具体的な戦略について解説します。
「SaaSの死」とは?
「SaaSの死」という言葉は、文字通りSaaS企業が倒産して消滅することを意味するわけではありません。これは、かつて高い成長率と安定した継続課金モデルで投資家にもてはやされたSaaSというビジネスモデルが、AI時代においては「成長の鈍化したオールドエコノミー」と見なされ、投資対象としての魅力を失いつつある現状を指す言葉です。
私は、この現象について「過剰反応だとは思わない」と考えています。テック企業において、売上成長率が前年同期比20%を下回ることは、投資家の視点からすれば非常に厳しい評価とならざるを得ないからです。実際に、AIを活用して高成長を維持する企業がある一方で、従来のSaaS大手の多くはその基準を下回っています。市場は、SaaSがAIエージェントに取って代わられる未来を織り込み始めているのです。
「SaaSの死」の根本的な原因:売上成長率の低迷
「SaaSの死」が叫ばれる最大の要因は、AI関連企業の爆発的な成長に対し、既存のSaaS企業の売上成長率が圧倒的に見劣りしている点にあります。私は常々、現在のAI・ソフトウェア市場を以下の5つのレイヤーに分類して分析しています(図1)。

この中で、SaaSが位置する「汎用型アプリケーション」以外のレイヤーは、異常なほどの高成長を続けています。例えば、巨大企業であるNVIDIAはいまだに前年度比プラス60%超で成長し、Google Cloudのようなインフラ事業も約50%の伸びを見せています。さらに、Anthropicに至っては前年比10倍近い成長を記録しているのです。
これに対し、かつて「高成長」の代名詞であったSaaS企業の成長率は鈍化が著しく、多くが一桁台から10%台の成長に留まっています。投資家にとって、資金を投じるべき対象は「極めて早く成長できる会社」か「安定的に莫大な利益が出る会社」のいずれかです。現在のSaaSはそのどちらでもない「中途半端な存在」となりつつあり、これが株価低迷、ひいては「SaaSの死」と呼ばれる現象の正体であると私は見ています。
AIスタートアップの頭角で上がった投資家からの期待値
なぜ、業界特化型のVertical AIはこれほどの急成長が可能なのか。その秘密は、彼らが狙っている「財布」の違いにあります。
かつてSaaSの革命は、パッケージソフトの購入費用をクラウドの利用料に置き換えるものでした。しかし、通常の事業会社では、ソフトウェア予算よりも人件費のほうが遥かに巨大であり、一般的に100倍以上の規模があります。ここ最近急成長している「Vertical AI(業界特化型AI)」は、特定業務を自動化することで、この巨大な人件費市場に直接アクセスしているのです。
例えば、私たちが投資したあるリフォーム業者向けAIの事例は象徴的です。従来、リフォーム業者は現地調査、写真撮影、採寸、見積書作成といった煩雑なプロセスに多くの時間を費やしていました。この作業にはリードタイムがあり、見積書を出す前に他社に顧客を奪われることも頻繁にありました。
しかし、このアプリを使えば、現場写真を撮り、要望を入力するだけで、AIがBefore/Afterの画像を生成し、近所の店舗で購入可能な部材をリストアップして、数分で見積書を自動作成してしまいます。結果として、このアプリを導入した個人事業主は、月間の売上が平均3500ドル(約50万円)も増加しました。
単なる「便利ツール」ではなく、「売上を直接増やす」、あるいは「人を雇う代わりになる」ソリューションであるため、顧客は高い対価を支払うことを厭いません。このように、AI導入の前後で顧客のビジネスパフォーマンスが劇的に変わることが、AIスタートアップの急成長を支えており、既存SaaSとの決定的な差となっています。
SaaS企業が売上成長を加速させるための施策
では、既存のSaaS企業や、これからAIを活用しようとする日本企業は、この「SaaSの死」の時代をどう生き抜くべきなのでしょうか。シリコンバレーの動向を踏まえ、私はいくつかの具体的な打ち手を提案します。
①営業プロセスの抜本的AI化による「売上成長」への回帰
コスト削減のためにAIを使うのではなく、「売上を増やす」ためにAIを使うべきです。特にB2B企業においてインパクトが大きいのは営業部門です。現在、多くの営業担当者は、勤務時間のうち顧客と会話している時間は25〜30%程度に過ぎず、残りは間接業務に追われています。AIを活用してこれら間接業務を極小化し、顧客との対話時間を70%以上に引き上げることができれば、人員を増やさずに商談数を倍増させ、売上成長率を再加速させることが可能になります。
②KPIの再定義:「MAU」から「Work Accomplished」へ
SaaSの伝統的なKPIであるMAU(月間アクティブユーザー数)やID数は、AI時代には意味をなさなくなる可能性があります。成功しているAIエージェント企業は、「AIがどれだけ人間の作業を代替したか(Work Accomplished)」をKPIとして設定しています。「ツールを何人が使っているか」ではなく、「ツールがいくらの仕事をこなしたか」に評価軸をシフトする必要があります。
③プライシングモデルの変革
KPIの変化に伴い、課金モデルも進化が求められます。従来の「1ユーザー月額いくら」というモデルから、AIが処理したタスク量に応じた従量課金や、成果報酬型への移行が進みつつあります。米国では、AIエージェントを「時給」で提供する、つまりAIの稼働時間に対して課金するという、人材派遣に近いビジネスモデルも登場しています。これは、ソフトウェア予算ではなく人件費予算を取りに行くための極めて合理的な戦略と言えるでしょう。
「SaaSの死」は、旧来のビジネスモデルの終焉を告げる警鐘であると同時に、AIを前提とした新しいビジネスモデルへの進化を促す号砲でもあります。日本の企業にとっても、米国の先行事例から学び、AI時代に適応した新たな成長軌道を描く絶好の機会と言えるでしょう。
Profile
シバタ ナオキ 氏
元・楽天株式会社執行役員、東京大学工学系研究科助教、スタンフォード大学客員研究員。東京大学工学系研究科博士課程修了(工学博士、技術経営学専攻)。スタートアップを経営する傍ら「決算が読めるようになるノート」を連載中。
