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子どもを殺害した母親への量刑
先日、母親が、8歳になる息子の首を絞めて殺害したという報道を見ました。
実際に何が起きたのかという事実はわかりません。
報道記事では、検察側の冒頭陳述(証拠によって証明しようとする事実)では概ね以下の趣旨の内容が述べられたとのことです(あくまでも、判決でどのような事実が認定されるかは別です)。
重い障害がある息子を育ててきた母親が、昨年5月に夫である子の父親から離婚を切り出され、自宅から追い出された。
子の母親は、法律事務所に離婚相談の電話をかけたり、ネットで、親子の無理心中や確実に死ぬ方法などについて検索。
子の母親は、子とともに実家に身を寄せて生活しながらも、夫への情から「別れたくないです。家に帰っちゃだめですか」などとメッセージを送るも、返事はなし。
そんな中、事情があって、親から、一度自宅に帰るよう提案された子の母親のもとに、夫から、2階の荷物を玄関先に出しておくから処分するように、とのメッセージが入ったとのこと。「2階の荷物」には、子どもの工作など大事な思い出の品が含まれていると認識した子の母親は絶望。
自分たちの遺体を夫に発見させて自分がしたことを思い知らせようと考えて無理心中を決意し、子どもを殺害し、自分も死のうとしたものの死ぬことができなかったとのこと。
報道によると、裁判の争点は、子の母親において、犯行時の責任能力に問題がなかったかという点。
つまり、弁護側は、子の母親である被告人は、犯行時、うつ病を患うなど心神耗弱状態(精神の障害等が理由で物事の善し悪しを認識したり、それに従って自分の行動を制御したりする能力が著しく減退している状態)にあったと主張しているところ、そのような状態にあったといえるのかという点です。
心神耗弱であると認められた場合は、心神喪失の場合と違い、無罪になるわけではありません。
法律で、刑が減軽されると定められています。
ですので、つまるところ、最大の争点は、どのような量刑になるのか、という点になります(もちろん、量刑につながる事実認定に関しても争いがある可能性があります)。
検察側の求刑は懲役8年であるとのこと。
人をひとり殺したという殺人罪の求刑としてはかなり軽い求刑です。
ただ、検察側が、もし、報道されているような内容が事実として認められると評価しているのだとしたら、そのような事案においてこのような求刑をすることは何ら違和感を感じるものではありません。
事案としては、全く異なるもので、ここで挙げることが適切でないのかもしれませんが、いわゆる介護疲れで無理心中を図った事案で、このような懲役10年を下回るような求刑がされたり、判決でも、数年間の実刑判決や場合によっては執行猶予判決が言い渡されることもあります。
無理心中事件で、検察側が指摘したり、判決でも指摘されたりする点として、「相手の将来を悲観して、ともに死ぬしかないという発想は短絡的だ。周囲に助けを求める機会はいくらでもあったのであり、にもかかわらず犯行に及んだというのは身勝手だ」という点があります。
実は、私も検察官時代、夫婦が、障害のある子の将来を悲観して無理心中をはかったものの、夫婦のうち一方だけが死にきれなかった無理心中の事件の主任検察官を務めたことがあります。
私は、その裁判の論告においてもやはり、そのような指摘をしました。
無理心中事件を目にしたとき、私がとても苦しくなることはこの点を考えるときです。
私自身が事件の担当をした20代の当時は、胸が苦しくなる思いを抱きつつも、被疑者、被告人の発想を「身勝手である」と評価することができていたように思うのです。
でも、その後20年以上の時を経て、私自身も一人で子育てをする過程で「周囲に助けを求める」ということが、人によっては、環境によっては、それほど容易な選択肢ではないということも身に沁みて感じています。
もしかしたら、あとで、他人から見れば、「当時のあなたには、ほかにもこんなことができたはずだ。自治体のこんな相談窓口もあったはず。家族にも助けを求められたはず。今は、ちょっとネットで検索すれば、いくらでもサポートしてくれる体制が整っている。それを選択しなかったのはあなたなのだ。自分の怠慢でやるべきことをやらずに、無理心中を図るなんて身勝手だ」と指摘することができるのかもしれない。
でも、私は思うんです。
もしかしたら、この女性は、ご本人も覚えていないかもしれないけど、ずっと昔、目の前のお子さんの対応に困り果てたとき、どこかの相談窓口を探し当て、勇気を出して電話してみたところ、機械的に流れた「ただいま、電話が込み合っております。またおかけなおしください」というアナウンスに心がくじけた経験があったのかもしれない。
もしかしたら、ようやくつながった電話で、窓口のかたから「では、お子さんが生まれたときのことから、ひとつひとつ事情をお聞かせください」と言われ、8歳の子どもが生まれてから今に至る年月を説明することの大変さに心くじけそうになりながらも、藁にもすがる思いで懸命に説明していたところ、途中、目の前で子どもが騒ぎ出してしまい、電話どころではなくなって、やむなく電話を切ってしまった経験があったのかもしれない。
もしかしたら、本当は「このままでは、私は子どもとともに死を選択してしまうかもしれないから助けてほしい」と言いたかったけど、そんな言葉を口にしたら何が起きるのかとおそろしくなってしまい、ようやく言えた「とてもつらくて助けてほしい」という訴えに対して、「あなたは一人じゃないよ」という心地よい言葉をもらえたものの、我に返ったとき、じゃあ、具体的に今この大変な状況に対してだれが何をしてくれるんだろうと絶望してしまった経験があったのかもしれない。
そう思うと、もしかしたら、外から見ると、「的確に周囲の助けを求めるための行動をとらなかった」と評価されてしまうかもしれないけど、当時の女性にとって、人から助けてもらうまでの間に心がくじけるような小さな出来事がたくさん積み重なって、結局助けてもらうに至れなかったのかもしれないんじゃないかと思えてしまうのです。
何の根拠もない想像。
でも、私自身も、背景事情は全く違っても、そんな経験を積み重ねて苦しんだ日々があったのでどうしても想像してしまう。
ただ、たとえそうであったとしても、それでもやっぱり今回の犯行に及んでほしくなかった。
亡くなる前、車の中で苦しんだ息子さんの10分間を想像すると、どんな事情があっても、やっぱり「他の選択をすべきべきだった」と言わなくてはいけないと思うのです。
そんな思いがぐるぐるする中、今の私ができることを考えなければ。
今回、女性が、夫から自宅を追い出された後、法律事務所に相談したという経緯が報じられていました。
その相談内容は、もしかしたら、実際に起きている出来事や女性の心情の本当にごくごく表面的な断片的な事実だけが現れたものだったかもしれません。
でも、私は、無理心中を図ることを考え「確実に死ねる方法」と検索している人が、私に対して藁にもすがる思いで電話をかけてくる可能性があるのだということを改めて認識しなければならないと思いました。
その訴えは、「夫から離婚を切り出されて、どうしたらいいかわかりません」という一言かもしれない。
そんな訴えの中から、「夫から家を追い出されて絶望するほど苦しい」とか「子どもの寝顔を見ていると、この子の将来を自分が背負う責任に押しつぶされそうになる」とか「そんな夜を過ごしていると、死にたくなる」とか「自分一人で死ぬわけにはいかないから子どもも道連れにしなくてはいけないと思っている」とかそんな隠れた心の叫びを見つけ出さなくてはいけないという思いで、訴えに耳を傾けなくてはいけないと思っています。
「周囲に助けを求めるべきだった」と評価するにあたり、周囲は、助けを求める小さな声に耳を澄ませることができているのか、という問いかけをしていく必要があると思います。
女性の量刑について、裁判所がどのような判断をするのか、注目したいと思います。
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