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先日、ある小学校で、発達障害の生徒が同級生から仲間外れにされるなどのいじめを受け、その被害を学校に相談したにもかかわらず、調査やいじめ防止策がとられなかったことから不登校となり、最終的には転校を余儀なくされたとして、同級生らと市側を相手に損害賠償請求訴訟を提起した件について報じられました。
その報道の中では、進学した中学校においてもいじめ被害が続いており、これを校長に相談したところ、「いじめられる側にも原因がある」と言われたとの生徒の保護者のかたのお話が報じられていました。
この件については、具体的な事実関係がわからず、軽率にコメントすることはできないので一般論としての話になりますが、発達障害といじめの問題については、私自身、とても深刻な問題と捉えています。
もっとも、その問題がとても大きく、多面的な検討が必要で、軽率に、「こんな点が問題だと思う」「こうすべきだと思う」というようなコメントをすることが非常に難しいと感じていて、これまでずっとこの話を避けてきました。
そもそも、発達障害という言葉を発することにも抵抗があって、その実態を勉強すればするほど、その言葉を使うことができなくなっています。
代わりに、「発達凸凹」「発達の課題がある」などという表現を使うことが比較的多いのですが、それについても実はいまいちしっくりきていないところがあります。
発達の課題、凸凹とはいうものの、それって、そういうものがない状態を「普通」「標準」とした上で、それとの比較で、「凸凹している」とか「課題がある」とか評価しているように思えてしまうからです。
発達凸凹などと呼ばれているものは、人がもっている特徴の1つというだけの話であって、それをもっているがゆえに、今の社会で生きづらさがあるとしても、それは、そんな特徴を受け止めきれない環境側の課題であって、それを、子ども側に問題があるかのような見方をすることに違和感があるのです。
ただ、もちろん、生きづらさがなくなっていくように、環境側からのアプローチだけでなくて、子どもの側に働きかけることもあっていいと思っていて、それをもって「課題」と表現することはあってもいいのだと思っています。
特徴が際立っている状態を「凸凹」と表現することがあってもいいのだと思っています。
私自身、発達に関しては自分なりに勉強しているものの、全く不十分で、そんな不勉強ゆえに間違ったことを言ってしまったり、だれかを傷つけるようなことがあったりしては絶対に嫌だなと思うと、なかなか発信ができずにいます。
そんな中、今回は、やっぱり思うことがあって、言葉をつづっています。
発達凸凹の子どもがいじめ被害に遭う機会は、結構あります。
言動に目立つところがあって、それをからかわれたり、お友達とやり取りする中で誤解されてしまったり、うまく集団のルールに従うことができずに先生からそれを何度も指摘されているうちにクラス中からバカにされるような言葉を投げつけられたり。
もちろん、常に、どんなケースでも被害者になる立場だなんていうつもりもないし、いじめの背景には発達以外の要素が絡み合っていることもある。
でも、このようなケースで、学校側が「いじめられている側に問題があった。いじめられている側の言動がいじめを招いた」という対応で終わらせることだけは、私は、絶対に違うと思うのです。
大前提として、いじめというものは、どんな状況においても絶対に許されない行為だということを確認する必要があって、何らかの原因があったから許されるなどという正当化要素は働かないものだということを明確にしなくてはいけないのだと思います。
その上で、いじめの背景に子どもの発達課題という要素がある場合には、通常のいじめの問題に加えて考えるべきことがあるのだと思います。
それは、いろいろな特徴をもつ子どもたちすべてが、どうしたら、傷つくことなく、互いに認め合って成長していく場を作ることができるかということを改めて考えること。
具体的には?となると、やはり一言では言えません。
発達に関する要素が背景にあるといっても、その要素は子どもによって全然違うし、その要素が、いじめの場面でどう影響したのか、また、加害側にはどのような課題があったのかなどは個別のケースによって全く異なってくるからです。
でも、私が、いろいろなケースがある中でひとつだけ共通すると感じるのは、いじめ被害に遭った子どもの保護者の方が、底知れない不安と絶望と怒りの感情におそわれるということ。
発達の特性ゆえに、日常生活に困りごとを抱えていて、いじめ被害などというものがなくても、ただでさえ毎日が不安でいっぱいであるということ、あると思います。
「今朝は、すんなり登校したけど、もしかしたら、途中で学校から連絡が入るんじゃないだろうか」
「何か忘れ物でもして、そのことがきっかけでパニックになったりはしていないか」
「お友達とトラブルを起こして、悲しい思いになっていないだろうか」
「授業中、立ち歩いて、先生から注意されていないだろうか。その注意がきっかけとなって、みんなから責められたりしていないだろうか」
「困ったときに、ちゃんと先生に助けを求められるだろうか。先生がちゃんとその声を聴いてくれただろうか」
「帰り道、安全に歩いて帰ってこられるだろうか」
「何か嫌なことがあって、泣きながら帰ってきたらどうしよう。笑顔で帰ってきますように」
そんな風にドキドキしながら、祈るような毎日。
その日常に、さらにいじめ被害が加わったら。
ただでさえ折れそうになっている心が折れてしまうこと、あると思います。
今は何とかしてわが子の心を曇らせるものを親として排除することができるかもしれないけれど、この先、私がいなくなったら、この子をどうやって守っていけばいいのだろうと絶望的な気持ちになることも。
そんな気持ちに押しつぶされそうになっているとき、目の前のいじめ被害に向き合い、学校に調査をお願いしたり、二度といじめが起きないための環境づくりについて相談したりすることはとても難しいものだと思うのです。
今ここですべてをひっくるめたようなひとつの結論を導くことはできません。
でも、日常生活にいろいろな困りごとがあるお子さんがいじめの被害に遭っていて、どう動いたらいいかわからないという保護者の方、すでに学校に相談してみたけれど、「お子さんの方にも問題があって、いじめとして対応することは難しい」などと言われてしまい、気持ちがくじけてしまった保護者の方。
もしよければ、一度お話をお聞かせください。
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