リーガルエッセイ
公開 2026.10.19

いじめ被害の記載に花丸をつけるということ

記事を執筆した弁護士
Authense法律事務所
弁護士 
(第二東京弁護士会)
慶應義塾大学法学部法律学科卒業。司法試験に合格後、検察官任官。約6年間にわたり、東京地検、大阪地検、千葉地検、静岡地検などで捜査、公判を数多く担当。検察官退官後は、弁護士にキャリアチェンジ。現在は、刑事事件、離婚等家事事件、一般民事事件を担当するとともに、上場会社の社外役員を務める。令和2年3月には、CFE(公認不正検査士)に認定。メディア取材にも積極的に対応している。
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いじめ被害の記載に花丸をつけるということ

以前、ある小学校で、生徒が、日記にいじめ被害に遭っていることについて書いたところ、それについて、担任の教員が花丸をつけて返却したということについて、生徒とその保護者が、学校などに損害賠償請求訴訟を提起したという記事を読みました。

先日、その裁判で、裁判所が、請求を退ける判決を下したとの報道に接しました。

花丸は、日記の提出を確認したことを示したものであって、記載を肯定的に評価するという趣旨があったわけではないとの認定がされたようだと報じられていました。

私は、その判決を読んだわけではなく、報道の限りでしか把握していませんので、たしかなことをコメントすることはできません。

少しこの件を離れて考えてみました。

私自身の子ども時代を振り返ってみたとき、たしかに、ある時期、日々の宿題とは別に、毎日、日記を書いて、担任の先生に提出することが課されていたことがあったように記憶しています。

提出する側の私は、特に代わり映えのしない毎日を送っていたものの、文章を書いて読んでもらうことが大好きだったので、つまらないことを、さも、ビッグイベントであったかのようにあれこれ大げさに書きつづっていたような。

「今日は、机の上がごちゃついているなと思いました。気になり始めたら、ほかのことが手につかなくなりました。」などと書き出し、机の上の物、ひとつひとつについて、断捨離した経緯を、その物への思い入れとか、それを断つためにどんなマインドセットをしたかとか、そんなことをくどくどと書き連ねて、「最終的に整った机の上を見たら、本当に気持ちよかったです。なにより驚いたのは、この過程がすべて5分以内の出来事だったということ。私は自分の集中力が怖いです」みたいに締めくくるのです。

なんてつまらない日常の開示。

でも、日記を通じて、先生に自分のことを知ってもらえて、そこに一言感想をもらえるということがうれしくて、毎日一生懸命書いていたような気がします。

今となっては、何を書いたかはっきり覚えていなくて、でも、唯一その内容を覚えている上記のお片付け報告の日は、先生から、「5分でそんなにきれいに片付くなら、毎日片づけられるといいね!」という何ともおもしろみのない返しが来て、がっかりしたことを覚えています。

そういえば、私は、日記に、当時抱えていた悩みや不安などを打ち明けたことはありませんでした。

いろいろ思い悩むことは、子どもながらにあったのだと思いますが、それでも書いたことがなかったのは、自分が打ち明けたことを、先生がどう受け止めるかということについて漠然とした不安があったからだろうなと思います。

そもそも、何かに書いて人に相談するって、かなりハードルが高いように思います。

少なくとも私はそう感じます。

まず、不安や悩みを、自分の内側から外に出して、言葉として発すること自体、勇気がいると思います。

というのも、それを口にしたとたん、その不安や悩みが、確たるものになってしまうというか、それまでは形のないもやもやしたものだったのに、言葉にしたとたん、それははっきり存在してしまうように感じられるから。

だから、口に出すことが怖いという感情が私にはあるように思います。

さらに、それを文字にして書き留めるって、口頭で発する以上に怖さがあるように思っていて。

ますます、その不安や悩みが動きようのない確かなものになって、存在してしまう。

たとえば、それが、だれかからいじめられているという内容だったとすると、文字にして書いたことで、「私は、人からこんないじめを受けている」という事実として自分に突き付けられてしまうような気がします。

それを人に見せて相談するという場合は、さらに大きな勇気を必要としそうです。

人に、自分の不安や悩みが、正確に伝わるだろうか。

これを見たときに、どんな表情をするだろうか。

どんな返事が来るだろうか。

相談したこと自体にネガティブな感情をもたれてしまったらどうしようか。

だれかほかの人に伝わってしまったらどうしよう。

そんなことを考えながら、勇気を出して、自分の不安や悩みをつづったものを相手に渡すことになるんじゃないかなと思うのです。

そして、私は、もし、自分の不安や悩みを書いた日記を提出したら、先生から、後でこっそり声をかけられて、「ちょっと放課後、お話ししよう」なんて言われるんじゃないかと思うかもしれない。

だから、日記がみんなに戻されるタイミングになったら、「あの中に私のものはないんじゃないか」って少しドキドキしてしまう気がします。

仮に、日記が戻ってきたとしたら、そこには、「ここに書いてくれた内容について後でお話しできるかな」などと書いてあるんじゃないかと思うような気がします。

まさか、そこに花丸が書いてあるとは予想できないのではないかと思うのです。

それを見たときには、私だったら、ちょっと驚いてしまうというか、「ああ、書かなきゃよかった」と思ってしまうように思うのです。

一方で、先生のお立場だったら、と想像すると、また違った見え方があるようにも思います。

この日記というものは、毎日、何かしら、1日を振り返って文章を書くという練習の一環として取り入れられたものなのかもしれない。

先生は、そこに何が書いてあるか、というよりは、毎日何かしらの文章を書いて提出しているかどうかをチェックするということを自身の任務と考えていたとしたら、たくさんの任務がある中で、必ずしも日記の一文一文を丁寧に読み込むことができず、書いてあることの確認のみして花丸を付ける、という対応ももしかしたらあり得るのかも。

それが理想的なのか否かは別として。

また、中身を読んだうえで、そのように、内心をつづってくれたことに花丸を付けた上で、別途、直接話をしようと考えていたという可能性も、一般論としてはあり得るのかもしれません。

この日記の花丸が何を意味するかということを、この記載のみをみて解釈しようとするというよりは、勇気を出していじめ被害を訴えた、その生徒の訴えを受けて、担任の先生はじめ、学校が、何を考え、何をしたのか、ということが大事なのかなとも思います。

日記への対応が花丸ひとつだったとしても、もし、それとは別に、学校側から、じっくり話をする機会を作ってもらえたり、お子さんの意思確認の上、保護者への共有、説明、申告されたいじめ事案の調査、調査を踏まえた加害者側に対する指導等しかるべき対応が十分になされていたのだとすると、生徒や保護者にとって、先生の書いた花丸の捉え方も少し違ったものになる可能性も。

結局、花丸だけの問題というよりは、その前後で、生徒と先生、保護者と先生や学校との間でどのようなやりとりがなされていたのか、信頼関係が築かれていたのか、そういったことが問われているのではないかとも感じました。

保護者として、子どもに関して、学校と話し合いをすることは、ときに、なかなか難しいこともあるなと感じます。

親としての思い、子どもの思い。

学校と話したいことはいろいろあるのだけど、今後も子どもの居場所となる学校に対し、率直な思いを伝えることにためらいがうまれることもあると思います。

どこまで伝えていいものなのか。

どう伝えたら伝わりやすいのだろうか。

不安になることもあると思います。

お子さんがいじめ被害に遭い、それに対する学校の対応に不安がありつつも、どう対応していいかわからないということもありますよね。

そのようなときには弁護士がお力になれることがあります。

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